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わたくしことkanakanaが、思ったことを書き散らす場です。

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エヴァンゲリオン新劇場版を観てきました。

 実際に見たのは公開されてすぐぐらい。一月ほど前の話になりますが、記憶を手繰り寄せて書く。

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「OVERMAN キングゲイナー」を観ました。

オーバーマン キングゲイナー Vol.9 <最終巻>

 「OVERMAN キングゲイナー」、全26話を見終えました。

 結局、エクソダスとはなんだったのか。最後の5話が怒涛の展開過ぎて理解が追いつかず、オーバーデビルとはなんだったのか? アーリーミイヤとは誰だったのか? など、疑問は尽きない。が、一番の疑問はエクソダスだ。
 主人公たちは、ウルグスクという管理された土地での生活を捨て、まだ見ぬ新天地であるヤーパンへ大掛かりな旅に出る。それが、キングゲイナーの世界で語られる「エクソダス」の意味だ。
 エクソダスは、それまでの生活から逃げることではなく、新たな行動を起こして変わっていくことだ、という台詞があった。新天地を求めて旅に出ることのみを見れば、確かにエクソダスは単なる逃亡ではない。
 しかしわたしが疑問に思うのは、その勢いを、ウルグスクで新しい生活を興す方向に使うことはできなかったのか、という点である。

 最終話で、ヤーパンに無事に辿り着いてエンディングを迎えるだろう、というわたしの期待はあっさり裏切られた。
 サラが「ヤーパンに着いたら、キングゲイナーにはその力を利用して畑を耕してもらう」などと言っているあたり、そこが桃源郷のような、単なる憧れの地として目指されているわけではない。それは分かる。だがしかし、そこで人々がどのような生活を営んでいくのかが、わたしには想像がつかない。
 エクソダスの中途には、(作中で積極的に描かれてはいないが)怪我人も死者も、そしてゲイナーのように望まずして取り込まれてしまった人々も、たくさんいるのだろう。肯定論者も否定論者も巻き込んで、それでもなお現状を変えようとする時代の力。そこにあるのは、大きな目標のためには多少の犠牲は付き物なのだという、ありがちな大義名分。
 だが、その旅を非日常とは、わたしには感じられない。今までとは違う形での生活が、旅という形に転化しているだけだとしか思えない。生きることには、個人レベルの小さな諦めに始まって、いつでもどんな場面でも選別が必要になる。それを踏まえて、ウルグスクでの生活とエクソダスでの生活とで違う点を考えると、生活の現場が転々としていくことだけではないだろうか。
 また、例えばゲイナーが、戦闘スキルを上げるためにゲームを利用していたシーンがあった。しかしその行動は特に咎められるものではなかった。エクソダスを始める以前からの習慣であっても(そして、それが「ゲーム」という、一般には否定的に捉えられがちな趣味であっても)、それが前向きな目的の元にあれば、認められないことはない。
 ヤーパンでの生活は、エクソダスでのそうした生活の延長線上にあるのか? 延長線上にしかないのか? ならばなおのこと、ウルグスクでそうして生きていこうという発想は、得られなかったのだろうか。

 つまりわたしは「逃亡」という言葉に引っかかっているだけなのだろうとは思う。今の自分を変えるために、何かしら新しいきっかけを必要とするのであれば、逃亡だって充分な理由になり得るだろうと信じている。逃げることを字面でそう否定しなくてもいいのに、と思うのである。
 あらすじを把握した現在、もう一度見直せば、「エクソダス」という行動が持つ意味を、また違う面から理解することもできるだろうか。こんな小難しいことを考えずに、素直に絵の綺麗さや登場人物の豊かさや破天荒な旅を楽しみたくもあるが、ともかく、またいつか観たい作品である。

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「OVERMAN キングゲイナー」を観ています。

オーバーマン キングゲイナー Vol.1

 「OVERMAN キングゲイナー」をようやく観ています。面白いよと話には聞いていたのですが、なかなか機会がなく、せっかくレンタル屋に行ったのにまとめて貸し出し中でもういいよ!バカー!とプンスカしたりとかで、ずっと見逃していました。
 昨日までで5話を観終わったところ。全26話ですからエンディングまではまだまだですが、とりあえず現時点での感想を、洗練させないままに箇条書き。

  • OP綺麗過ぎる。
    • ロゴがピクピクするところがとてもよい。予想外なので新鮮に驚ける。
    • ゴーゴーはネットで評判を見て期待していたほど激しくはなくて、ちょっとガッカリした。ていうか、前知識入れてしまってたからつまらなかったな。
    • ゲイナーとサラとのダンスは素晴らしい。「感じられれば力」のところ、何度見ても泣きそうになる。いやいやマジですよ。ゲイナーの表情が変だけど。
  • 物語は、相変わらずの富野節というか、初見ではほとんどストーリーが掴めない。
    • 「ヤーパン」「エクソダス」のように、それなりに耳慣れぬことなく聞き取れる単語もあるのだが、それが何を意味するのかが分からない。
    • 第n話の冒頭の前回のあらすじで、ようやくn-1話が理解できる感じ。話の構造自体はシンプルだが、展開が目まぐるしいから理解が追いつかない、ってのも大きいんだろう。
    • で、2回以上観る or ネットで知識を入れちゃう、ってのを前提にして、キャラ中心に観るよう切り替えたら、すごく楽しめた。
  • キャラの思考が素直に受け入れられてよい。しかしこれはガンダムとかと比較してしまうからかしら。
    • ゲイナーはカミーユに似ている。けれど、カミーユの行動がわりと不可解なのに対して、ゲイナーは歳相応の頑固さを持ってるだけという感じ。あとゲイナーはロランにも似てると思う。ロランも頑固ですね。
    • アナ姫の声はソシエ? ←あとで調べたらメシェーの声だった。
    • ヤッサバ好き! 大好き! つまりヤザンさん愛してる!
  • ED、「You can you get my song」のところ、サラが恐過ぎる。あれは狙ってるのか? それとも恐さ以外の何かを表した表情なのか?

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「電脳コイル」を見ています。

電脳コイル (1) 限定版

 5月からNHKで放映されているアニメ、電脳コイルを見ています。何話か見逃した回もあったのですが、今日はこれまでの放映分をまとめて再放送ということで、午後はずっとアニメ鑑賞の日でした。
 以前も書きましたが、魔法は科学がものすごく進化したものである、という設定の作品が好きです。電脳コイルの世界では、「魔法」という言葉ではなく科学は科学のままなのですが、描かれているのは確かに非日常。例えば、駄菓子屋は、身近でありつつも非日常感を手軽に楽しめる場所だと思うのですが、その駄菓子屋で電脳アイテムを売っているというのは面白い。
 全26話で5月から放映開始ということは、年末に終わるのかな。それでも、すでにDVDが9月に発売予定なのですね。以下、なんとなく思ったこと。

  • 絵柄・音楽・色使い、どれも落ち着いていて良い。
  • 質感が淡々としているのに、激しい戦闘シーンも多い、そのギャップが面白い。
  • OPの終わりが不安な感じ。光が射してくるところなのに、曲調も、ヤサコの表情も。
  • 音楽がクライズラーアンドカンパニーの人だった。今はアニメの仕事してんのかー。
  • アイキャッチに絵が入るのが面白い。第5話のはアキラの電脳ペットのネズミでした。
  • ハラケンは、ボーっとしてるというよりも鬱々としてるように見える。「守秘義務」という言葉を辞書で調べていたり、日本語がまだ未熟(?)なのは、フミエやヤサコの子供らしさなのかなあ。
  • というか全体的に子供らしさが無い。非日常っていうのとはちょっと違う、変な感じ。

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劇場版∀ガンダム「I 地球光」「II 月光蝶」を観ました。

 TVシリーズはしばらく前に観ていたが、劇場版2本は未見だったので、先日レンタルで借りてきた。知人の話によると、TVシリーズと劇場版とを観終えてようやく補完される、ということだったので楽しみにしていたのだが、いまいちだった。
 一番大きい不満は、ウィル・ゲイムが出てこないこと。つまり、ディアナが地球に降りる決意をした重要なエピソードが、バッサリと切られていること。ディアナの心情を描かずして、地球人とムーンレィスとの対立・交流を描くことは、無意味だと思う。
 まあでも当たり前なんだけれど、全く違う側面から新しい話を生み出すよりは、かなり急ぎ足の総集編にしてしまうのが手っ取り早いんだろうな。TVシリーズ全50話の物語を4時間に詰め込むとすれば。ただし、Wikipediaによると、

なお、「月刊ニュータイプ」誌上で富野由悠季は、2005年に公開された劇場版『機動戦士Zガンダム』と同じく、20年後(おそらく2019年)に新訳の『∀ガンダム』を創りたいと述べた。

ということらしいので12年後がとても楽しみです。生きる気力が湧いてきます。

ターンAガンダム 1 地球光 ターンAガンダム 2 月光蝶

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