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「OVERMAN キングゲイナー」を観ました。

オーバーマン キングゲイナー Vol.9 <最終巻>

 「OVERMAN キングゲイナー」、全26話を見終えました。

 結局、エクソダスとはなんだったのか。最後の5話が怒涛の展開過ぎて理解が追いつかず、オーバーデビルとはなんだったのか? アーリーミイヤとは誰だったのか? など、疑問は尽きない。が、一番の疑問はエクソダスだ。
 主人公たちは、ウルグスクという管理された土地での生活を捨て、まだ見ぬ新天地であるヤーパンへ大掛かりな旅に出る。それが、キングゲイナーの世界で語られる「エクソダス」の意味だ。
 エクソダスは、それまでの生活から逃げることではなく、新たな行動を起こして変わっていくことだ、という台詞があった。新天地を求めて旅に出ることのみを見れば、確かにエクソダスは単なる逃亡ではない。
 しかしわたしが疑問に思うのは、その勢いを、ウルグスクで新しい生活を興す方向に使うことはできなかったのか、という点である。

 最終話で、ヤーパンに無事に辿り着いてエンディングを迎えるだろう、というわたしの期待はあっさり裏切られた。
 サラが「ヤーパンに着いたら、キングゲイナーにはその力を利用して畑を耕してもらう」などと言っているあたり、そこが桃源郷のような、単なる憧れの地として目指されているわけではない。それは分かる。だがしかし、そこで人々がどのような生活を営んでいくのかが、わたしには想像がつかない。
 エクソダスの中途には、(作中で積極的に描かれてはいないが)怪我人も死者も、そしてゲイナーのように望まずして取り込まれてしまった人々も、たくさんいるのだろう。肯定論者も否定論者も巻き込んで、それでもなお現状を変えようとする時代の力。そこにあるのは、大きな目標のためには多少の犠牲は付き物なのだという、ありがちな大義名分。
 だが、その旅を非日常とは、わたしには感じられない。今までとは違う形での生活が、旅という形に転化しているだけだとしか思えない。生きることには、個人レベルの小さな諦めに始まって、いつでもどんな場面でも選別が必要になる。それを踏まえて、ウルグスクでの生活とエクソダスでの生活とで違う点を考えると、生活の現場が転々としていくことだけではないだろうか。
 また、例えばゲイナーが、戦闘スキルを上げるためにゲームを利用していたシーンがあった。しかしその行動は特に咎められるものではなかった。エクソダスを始める以前からの習慣であっても(そして、それが「ゲーム」という、一般には否定的に捉えられがちな趣味であっても)、それが前向きな目的の元にあれば、認められないことはない。
 ヤーパンでの生活は、エクソダスでのそうした生活の延長線上にあるのか? 延長線上にしかないのか? ならばなおのこと、ウルグスクでそうして生きていこうという発想は、得られなかったのだろうか。

 つまりわたしは「逃亡」という言葉に引っかかっているだけなのだろうとは思う。今の自分を変えるために、何かしら新しいきっかけを必要とするのであれば、逃亡だって充分な理由になり得るだろうと信じている。逃げることを字面でそう否定しなくてもいいのに、と思うのである。
 あらすじを把握した現在、もう一度見直せば、「エクソダス」という行動が持つ意味を、また違う面から理解することもできるだろうか。こんな小難しいことを考えずに、素直に絵の綺麗さや登場人物の豊かさや破天荒な旅を楽しみたくもあるが、ともかく、またいつか観たい作品である。

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