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わたくしことkanakanaが、思ったことを書き散らす場です。

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帰るべき場所


深夜にふと目が覚めて、半覚醒状態のときに、なぜかいつも
「ああ、今の夢ちょっとおもしろかった、Twitterに記録しておこう」と思う。
夢うつつなんで、わざわざ居間まで行ってペンとメモ帳を取り出して、
とならないのは当然かもしれないが、なぜTwitterなのか。

「少女ファイト」6巻にて、
学に「練さんは 式島先輩の どういった所が お好きなのかな なんて……」と訊かれ
練は「なんかねー 学校で プール入ってる 時とか…… 特殊な場所に いる時 あるでしょ」
「ああいう時 急にね わ~~なんか シゲルんとこ 帰りたい~~ って思うんだよ」と答える。

そんなにわたしはTwitterが好きだろうか?
や、反語として「好きだろうか? いや好きではない」と言いたいわけじゃなくて
そこまで好きだったのか、我ながらうむむ、という感じで。
最近めっきり発言も減ってしまっているのにねえ。不思議だ。


2013/06/07追記
2013-06-05 Jさんより拍手コメントをいただきました。
そうか、そういえばTwitterって独り言ツールだったんですよね。
Twitter疲れというのともまた違うんだよなー、とか自己分析していたのですが、
そうかー。まさに原点回帰なんですねえきっと。

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addとトラックバックとの共通点

 超久々にネットサーフィンというか、人のブログからブログを渡り歩くという行為をしておって、ふと気付いたんですが。首記通り、Twitterで誰かをaddすることと、ブログで元記事へTBすることって、似てなくね? そうでもない?

 そもそもわたしはTBなるものが苦手だ。「この方のこの発言をきっかけに自分もこれについて考えてみました」と、自分の記事の中で言いたいだけなら、元記事へのリンクだけで充分じゃん。自分の主張を、元記事を書いた人や読む人に知らせたいだけなら、元記事へのコメントとか筆者へのメールとかで充分じゃん。
 それをわざわざTBして、さらに大勢の人の目に触れるようにしちゃうのって、ちょっと自意識過剰じゃなくね? そうでもない?

 ではなぜTBという仕組みがあるのだろうか。Googleで「トラックバックとは」とか検索してみると、これはもう圧倒的に「トラックバックすることによって、両方のブログの、筆者・読者を含めた交流の場が広がります。」と説明しているサイトが多いように感じた。←ように感じた、とは我ながら弱気。
 自分がブログを始める前は、TBとはもうちっと学術的な理由によって使われるものであろうと思っていた。引用文献を当たるようにして、さらに議論を発展させるためのものであろう、と。なんでそんなふうに思い込んでたのかは分かりません。
 なのでちょっと調べてみました。こちらこちらなどで、TBを発明した方の解説を日本語に訳したものを読みました。原文を読んでも理解できなかったことはまぁお察しいただきたい。

 ここではTBの可能性について2点が挙げられている。まず、上で述べたような、「わたしも同じようなこと書きましたよー」という(自意識過剰な)通知目的。ふむふむ、そもそも発明者の意図からして、そういう使い方をされることは想定済みだったわけですね。
 そして、それに加えて、

ブロガーBは、自分のサイトにある特定の投稿を参照したすべてのサイトを自動的にリストでき、ブロガーBのサイトの読者は、ブロガーAの投稿を含むウェブ中の関連した投稿を読むことができます。

 ここですよここ。上記の通知目的から一歩開けた、応用利用方法ですね。わたしは、ここらへんを学術的という言葉に置き換えて考えていたのだろう。しかしわたしが、前者より後者をTBの主な目的である、と信じ込んでいた理由はいまだ分からず。

 では、なぜわたしは、「通知すること」を自意識過剰だと思ってしまうのだろうか。
 これはもう圧倒的に、自分の書くことに自信がないからだろう。今回のような、そこそこ硬い(?)文章にしても、それなりにがんばって調べたりして書くわけだけれども、それが正しい情報かどうか自信がない。単純に、読んだ人を面白がらせられるような、魅力的な内容になっているかどうかも自信がない。
 この程度の文章を書いたことを、わざわざ誰かに知らせることに自信がない。

 つまり、これは、Twitterにおいて誰かをaddする恐怖感と似ている、と思ったわけです。楽しい誰かの言葉を、自分が一方的に聞くのは構わない、というか、楽しいよそりゃ。だけど誰かをaddするとさ、その人に「あなたはkanakanaさんにaddされてますよ」って報告メールが行くわけじゃん! それって恐ろしいよ!
 その誰かが、一応わたしのTwitterページを確認しにいらっしゃる。で、この人はaddする価値の無いことばっかり喋ってる人だなあと思う。結果、わたしはFriendばかりが増えて、Followerの少ないユーザーになる。これって恐ろしいことですよ。目に見えて数で分かるんですよ、自分がどれだけ世界から否定されている人間なのかが。
 それに気付いてからは気軽にaddができなくなってしまいました。あ、半ウソです。そこに気付いたのはわりと初期ですが、それ以降もわたしはどんどんどんどんaddしまくってます。

 そもそも自分をつまらないと思われるのが恐怖ならば、面白いことをどんどん言えばいいのだ。しかしそうできないことこそが本当の恐怖なのであって、恐怖の正体なのであって。できないことをやれと言われるのは、仕事の場でもねえ限り理不尽でしかない。やりにくいことをやれと言われるのとは違う。できないことをやれと言われても、できないのです、と答えるしかない、或いは沈黙するより他に無い。
 そもそも自分がつまらないことに、こんなに過大な恐怖を抱くのがおかしいのだ。それはある意味、病気なのだ。だが、あいつつまんないけどがんばってるじゃん、認めてやろうよ、としてもらえなかった過去をいっぱい持っているならば、そこらへんを恐がって臆病になってしまうのも仕方がない、と自己分析しております。がんばっていない自分は棚に上げているのが最も意気消沈なポイント。

 つまり結論としては、「気軽にadd」という言葉の一番の問題点は、本当は気軽じゃないかもしれない、と疑ってしまうところではなかろうか。addしましたよメールがいちいち来ることではなかろうか。もちろん設定でそこらへんは変えられるわけだが、Friendリストに追加した相手がaddしましたよメールを切る設定にしているかどうかは、こちらには分からない。
 誰かに読まれることを、読まれる側も読む側も意識せざるを得ないので、「気軽」と紹介されているのに話が違うじゃん!と思ってしまうのではなかろうか。Webは本当は世界中に広いものなのよ。それを忘れようとしているあなたが悪いのよ。なんだかもう何が言いたい文章なのかが分からん。本当に主張したいのは、あれだ、一つの記事を書くのに何日も時間かけるとろくなことがないね。

5月23日追記
 「プロット備忘録[Quox]」のTwitterと言語モデルにて、同様のことを書かれているのを見つけました。addすることについて、とても簡潔にまとめておられます。ぜひお読みください。

現実に置き換えて例えると、人気アーティストのCDを買ってきて聴くのは自由だが、そのアーティストに自分の歌を聴かせるのは自由ではない――という、ひどくあたりまえのシステムだ(そしてアーティスト本人も、自分が好きな小説の作者に会って話ができるわけではない)。

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add「文化」について

 前エントリに引き続き、Twitterの話題です。  わたしがTwitterを知ったのは、「林檎の木」というソフトウェア紹介サイトででした。newtonさんの文章は毎日読んでいて愉快なので、こういう方の呟きが流れ込んでくるのはきっと面白いだろうな、と思いました。
 あっという間に案の定Twitterにハマって、もう少しFriend登録を増やしたいな、と思い、次に見つけたのがTwitter検索です。普通に検索するのみならず、ひたすらこのページをリロードしては、おもしれーことを言ってる人を追っかけて見、ProfileにURLがあればそちらも追っかけて見、こうしてaddまたaddを繰り返し、というふうに使わせていただきました。
 公式にもPublic Timelineという参加者全員の発言が見られるページがありますが、Twitter検索では、日本語ユーザーに限定して検索でき、且つ過去の発言も全て見られるのがありがたいです。

 前書きが長くなったよ。今回書きたかったのは、
 では、わたしはどういう人をaddするのかとか(具体的には。口調が愉快な人(読むだけでもう元気にさせてもらえる)。自分をaddしてくれた人(こんなわたしに少しでも興味を持っていただけたとしたら超嬉しい)。趣味が合う!人(楽しくレスできたりレスされたりという機会も増えるだろう)。境遇が似通ってそうだと感じた人(それこそ一方的な感情移入)。とかですかね。)、
 逆に、どういう人はaddしないのかとか(具体的には。専門用語が多い人(話が全く分からないのはあんまり楽しくない)。最終発言がもう何日も前の人(Followされるのは全く構わないのです)。分からない言葉の人(英語ならなんとか)。FriendやFollowerの数が3桁とかの人(なんっちゅーか恐れ多い)。とかですかね。)、
 それでも、自分とは違う世界を垣間見ることができるのはおもしろいから、どんなユーザーであってもしばらく眺めるのは楽しいよ、それが例えbotとかスパムであっても楽しいと思う。とか、
 だけど、気軽にaddしたりされたりすることが「文化」という単語で表現されるのはなんか変な感じがするという、既に語り尽くされた感のあるテーマを改めて考えたりとか、
 その場合「気軽」の意味のほうで引っかかるんじゃないかなあ、Public Timelineに表示されるアイコンを片っ端からaddってのは「気軽」とはまたなんかちょっと違うような、としつこく考えたりとか、
 add返しされない自分はやっぱりつまらないことしか言えない、繋がる価値を見出せない人間なのだなあと底無しにガッカリしたとか、
 実際わたしはTwitterで、Twitterでなくてもこのブログでも、実生活でも、何か価値のあることを言えているのか?とか、
 例えネガティブテーマでも、張り切って展開させればそれはきっとポジティブな行動のはずなんだと強がったりとか、
 まーでも誰かのふとした言葉に元気になることもあったりして、そういう、いい意味で自己中心的な人間になりたいとか、
 ある方が「ネガティブトゥイート不要」と書かれているのを見て、すっごい自己批判しつつそういう自己批判が自意識過剰なのだと思いつつ全力で同意した結果、わたしもがんばろう!という前向きないい気持ちになったことだとか、

 まあなんかそんなんです。書こうと思ってたのは。本当は。
 addすること / されることについては、こちらのお三方のご意見に、共感できる部分が多かった。敬意を込めてリンク。

「あんプリン」Twitter - 発動編
「Lazy twitter.」addについて少しだけ考えてみた。
「ジャポニカ忍法帖」Twitter雑感

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Twitter、はじめてました

 はじめまして、kanakanaと申します。
 ブログを作って初めてのエントリはいつも緊張する。単なる自己紹介や当ブログ紹介に終わることなく、ここはいっちょ所信表明をしてやろうと思うわけですね。自意識過剰というか、気負い過ぎなのかもしれないけれど。
 いくつかブログを作って放置してと繰り返してきましたが、今回また何か文章を書く日々を再開しようと思ったのは、ちょうど一月ほど前に、Twitterを始めたことがきっかけです。Twitterで誰かが言った言葉が琴線に引っかかって、短文ではなくもう少しまとまった形で考えてみたい、と思うタイミングが増えたからです。

 ところでTwitter超楽しいよ。まだアカウントを持っていない人は、「今更始めるなんて流行後追いみたいでかっこ悪い」とか思わずに、やってみるがいいよ。
 Twitterというのは、乱暴に言うと、ほぼ一方通行の簡易チャットです。「What are you doing?」という設問に答えて、今やってることや思ってることを正直に脈絡も無く書いたり、誰かの言葉を時間が過ぎるままに眺め続けたり、ときにはふと返事をしてみてさらに返事があって嬉しくなったり、そんな簡易チャットです。
 と、文章で説明されてもよく分からんとお思いの方も多いことでしょう。百聞は一見に如かないので、こちらの、わたしのTwitterページをご覧になってください。これがここ数日のわたしの独り言一覧です。たまに文頭にアットマークが付いてるのは、他の人に話しかけている言葉。さらにこちらは、わたしが登録した人々の発言一覧です。
 いかがですか楽しそうでしょう。まだアカウントを持っていない人はやってみるがいいよ。英語は恐ろしいけれど、検索すればアカウント登録方法を解説してくださっているサイトもたくさん見つかります。

 わたしはもともとチャットが大好きで、普段から閑散としたIRC内輪チャンネルなどに常駐しているせいもあり、レスが有ろうと無かろうと独り言を垂れ流すことに抵抗がない。Twitterとはなんぞや?と紹介しているサイトでは、「IMやチャットにありがちな、レスが強要されるような場面が少なく、ゆるさが心地いいサービスです」という文面をよく見かける。一面正しかろうと思う。
 というのはやはりわたしの強がりで、そりゃまあレスが有れば無いよりは嬉しい。ですのであえて「Twitterはほぼ一方通行なだけの簡易チャットだと思います!」と言い切りたい。

 わたしにとってTwitterというのは、もしかして、いやもしかしなくても、「返事が来なくても、そもそもそういうものなんだ、と思い込むことでヘコまなくて済むチャット」「IRCとかIMだと、メンツが固まってしまっていて楽しくないなと思うこともあり、そこへ持ってきてタイミングよく見つけた、より開けたチャット」なのだろう。
 というような弱々しいことを普段から考えて生きています。自虐的な文章は読む気がしないとよく言われているけれども、それでも、人と繋がりたいし人に繋げたい、そういうような人間です。はじめまして、kanakanaです。

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