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わたくしことkanakanaが、思ったことを書き散らす場です。

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addとトラックバックとの共通点

 超久々にネットサーフィンというか、人のブログからブログを渡り歩くという行為をしておって、ふと気付いたんですが。首記通り、Twitterで誰かをaddすることと、ブログで元記事へTBすることって、似てなくね? そうでもない?

 そもそもわたしはTBなるものが苦手だ。「この方のこの発言をきっかけに自分もこれについて考えてみました」と、自分の記事の中で言いたいだけなら、元記事へのリンクだけで充分じゃん。自分の主張を、元記事を書いた人や読む人に知らせたいだけなら、元記事へのコメントとか筆者へのメールとかで充分じゃん。
 それをわざわざTBして、さらに大勢の人の目に触れるようにしちゃうのって、ちょっと自意識過剰じゃなくね? そうでもない?

 ではなぜTBという仕組みがあるのだろうか。Googleで「トラックバックとは」とか検索してみると、これはもう圧倒的に「トラックバックすることによって、両方のブログの、筆者・読者を含めた交流の場が広がります。」と説明しているサイトが多いように感じた。←ように感じた、とは我ながら弱気。
 自分がブログを始める前は、TBとはもうちっと学術的な理由によって使われるものであろうと思っていた。引用文献を当たるようにして、さらに議論を発展させるためのものであろう、と。なんでそんなふうに思い込んでたのかは分かりません。
 なのでちょっと調べてみました。こちらこちらなどで、TBを発明した方の解説を日本語に訳したものを読みました。原文を読んでも理解できなかったことはまぁお察しいただきたい。

 ここではTBの可能性について2点が挙げられている。まず、上で述べたような、「わたしも同じようなこと書きましたよー」という(自意識過剰な)通知目的。ふむふむ、そもそも発明者の意図からして、そういう使い方をされることは想定済みだったわけですね。
 そして、それに加えて、

ブロガーBは、自分のサイトにある特定の投稿を参照したすべてのサイトを自動的にリストでき、ブロガーBのサイトの読者は、ブロガーAの投稿を含むウェブ中の関連した投稿を読むことができます。

 ここですよここ。上記の通知目的から一歩開けた、応用利用方法ですね。わたしは、ここらへんを学術的という言葉に置き換えて考えていたのだろう。しかしわたしが、前者より後者をTBの主な目的である、と信じ込んでいた理由はいまだ分からず。

 では、なぜわたしは、「通知すること」を自意識過剰だと思ってしまうのだろうか。
 これはもう圧倒的に、自分の書くことに自信がないからだろう。今回のような、そこそこ硬い(?)文章にしても、それなりにがんばって調べたりして書くわけだけれども、それが正しい情報かどうか自信がない。単純に、読んだ人を面白がらせられるような、魅力的な内容になっているかどうかも自信がない。
 この程度の文章を書いたことを、わざわざ誰かに知らせることに自信がない。

 つまり、これは、Twitterにおいて誰かをaddする恐怖感と似ている、と思ったわけです。楽しい誰かの言葉を、自分が一方的に聞くのは構わない、というか、楽しいよそりゃ。だけど誰かをaddするとさ、その人に「あなたはkanakanaさんにaddされてますよ」って報告メールが行くわけじゃん! それって恐ろしいよ!
 その誰かが、一応わたしのTwitterページを確認しにいらっしゃる。で、この人はaddする価値の無いことばっかり喋ってる人だなあと思う。結果、わたしはFriendばかりが増えて、Followerの少ないユーザーになる。これって恐ろしいことですよ。目に見えて数で分かるんですよ、自分がどれだけ世界から否定されている人間なのかが。
 それに気付いてからは気軽にaddができなくなってしまいました。あ、半ウソです。そこに気付いたのはわりと初期ですが、それ以降もわたしはどんどんどんどんaddしまくってます。

 そもそも自分をつまらないと思われるのが恐怖ならば、面白いことをどんどん言えばいいのだ。しかしそうできないことこそが本当の恐怖なのであって、恐怖の正体なのであって。できないことをやれと言われるのは、仕事の場でもねえ限り理不尽でしかない。やりにくいことをやれと言われるのとは違う。できないことをやれと言われても、できないのです、と答えるしかない、或いは沈黙するより他に無い。
 そもそも自分がつまらないことに、こんなに過大な恐怖を抱くのがおかしいのだ。それはある意味、病気なのだ。だが、あいつつまんないけどがんばってるじゃん、認めてやろうよ、としてもらえなかった過去をいっぱい持っているならば、そこらへんを恐がって臆病になってしまうのも仕方がない、と自己分析しております。がんばっていない自分は棚に上げているのが最も意気消沈なポイント。

 つまり結論としては、「気軽にadd」という言葉の一番の問題点は、本当は気軽じゃないかもしれない、と疑ってしまうところではなかろうか。addしましたよメールがいちいち来ることではなかろうか。もちろん設定でそこらへんは変えられるわけだが、Friendリストに追加した相手がaddしましたよメールを切る設定にしているかどうかは、こちらには分からない。
 誰かに読まれることを、読まれる側も読む側も意識せざるを得ないので、「気軽」と紹介されているのに話が違うじゃん!と思ってしまうのではなかろうか。Webは本当は世界中に広いものなのよ。それを忘れようとしているあなたが悪いのよ。なんだかもう何が言いたい文章なのかが分からん。本当に主張したいのは、あれだ、一つの記事を書くのに何日も時間かけるとろくなことがないね。

5月23日追記
 「プロット備忘録[Quox]」のTwitterと言語モデルにて、同様のことを書かれているのを見つけました。addすることについて、とても簡潔にまとめておられます。ぜひお読みください。

現実に置き換えて例えると、人気アーティストのCDを買ってきて聴くのは自由だが、そのアーティストに自分の歌を聴かせるのは自由ではない――という、ひどくあたりまえのシステムだ(そしてアーティスト本人も、自分が好きな小説の作者に会って話ができるわけではない)。

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