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わたくしことkanakanaが、思ったことを書き散らす場です。

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本当は日常雑記みたいなのも書きたい

 ふと気付いたら前回の更新から5日も経っているではありませんか。
 考えたことを、ただ考えるだけにして放り出さず、きちんとケリをつけて世の中にお披露目しよう。そういう目的で書いているブログだから、自分の納得がいかない文章しか書けない限り、更新されない。それはまぁ構わん。あーでも例外として、ただ言葉を羅列したい気分のときももちろんありますが、そして今回なんかもそんな文章ですが、と、一応言い訳をしておく。
 問題は、書きたいことがあるのに書けないってことだ。よく言われるようなブログ更新にまつわる強迫観念とは、少し違う。誰かに自分を伝えたいのに、うまくそうできない。本気で伝えたいと思っていないから、そうできないのだろうか? いや、本気で伝えたい、誰にも理解されなければ淋しくてわたしは死んでしまうと思う、誇張ではなく。なのになぜできないのだろう?
 文章能力が低いのか、何かをきちんと考察できない自分の怠惰さが悪いのか、集中して文章をまとめられない脳味噌が憎いのか。

 昨日はPCが不調で、なぜかシャットダウンできない病に陥った。電源を切っても切っても切れないんですよ、恐かったですよ。小さいときに繰り返し視た恐い夢を思い出した。TVからお化けが出てきて襲われる。必死でTVの電源スイッチを切る。切れない。何度スイッチを押しても押しても、電源は切れないのだ。お化けが出てくる。こええええ。閑話休題。
 シャットダウンができないということは起動もできないかもしれないのであり、そうなるとブログはしばらく更新できないかもしれないのであり、そうするとわたしは世の中からさらに隔絶されてしまうかもしれないのだ。情報を得られないことも恐いが、情報を伝えられないことも恐くて、それがPCの故障によって具現化するかもしれない、というのは新たな発見だった。
 本当はこんなふうに弱いことや些細なことも、臆せず世の中にお披露目していきたい。何を世界に伝えたくて、別に伝えようと思わないのは何か、という取捨選択は、わたしがカッコつけているからなされる行為なのかもしれないと不安になる。そんなカッコつけに意味はあるのか? 毎日劇的な何かが起こると思っているのか?

 本当はわたしも、もう少し気軽な日記を書いてみたい。自分の思考を誰かに知ってもらうこと同様に、今日はこんなもん食べてこんなとこ行ってこんなことして楽しかったよ、という身辺雑記を書いてみたい。生存証明と言うならば、そういう毎日のことを丁寧に継続して書いていく、というのは重要なことだと思う。
 しかし哀しいかな、何も特記すべき事項が無い。金がないので百均の安売りパスタにレトルトカレーで、ハロワ行く勇気がないのでネットで就職情報検索して、でもいつの間にか無関係のサイトを渡り歩いて遊んでいて、気付いたら朝になったので寝ました、今日もあまり楽しいことは無い一日だった。数行前に戻る。
 ここ数か月ほとんどずっとこの繰り返しなのですが、それを毎日読んでもらうことに意味はあるのか? いやー。無いよー。無いだろー。否、人が読んで面白いかどうかが第一なのではなく、「こんなことを書いてる自分がつまらない」という気持ちが真っ先に来ているから、書くのを躊躇するのだ。血沸き肉躍るような出来事だけ書いて賞賛されたい、こんな文章じゃそれには程遠い、というカッコつけ方。
 書きながらわたしは読み手になっている、こんなもん好んで読もうという人はあまりいなかろう、だけどそれだけじゃない。内容ではなく、その文章を書くときの自分の気持ち。無職であることや無知であることや、何も無い毎日や、ならばプラスに転じようという動力の無い自分を、恥じる気持ち。晒すのが恥ずかしいのでなくて、自分で恥ずかしいと思うような生活をしていること自体が恥ずかしいのだ。
 では、なぜそれを「つまらない」「恥ずかしい」と感じるのだろう。何かを丁寧に書こうとするなら、内容に程度の差なんて存在しないのに。「mixiに溢れるようなどうでもよさ」という言葉で他人の日常を切り捨てて、毎日を丁寧に生きる人を侮蔑して、そんなことでカッコつけたつもりになってる自分が恐ろしくイヤだなあと思う。

 図らずも、先日書いた文章の続きになってしまった。mixiで日記を書いている方をバカにしたかのような表現が、我ながらとてもイヤ。オチが無い。考えがまとまらない。

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もうお前は動くより他無いのだ

 昨日はいつもとちょっと違う髪型にしていた。東村アキコの「ドライアイス」「ゑびす銀座天国」に出てくるコオロギ君のようで、鏡に映る己が、いつもよりなんだかいい感じだった。まぁ、それは錯覚なんだが、しかしこんな簡単なことで浮上できるのはいい兆候かもな、と思う。普段はなぜにマイナスな感情から抜け出せないのだろうか?
 たまたま見ていた日本橋ヨヲコスレに、「期待を持たずに生活するのがいい。悪いことがあっても絶望せずに済むし、いいことがあったら予想外に喜べてお得だから」というようなレスがあった。よく見かける意見ではあるが、それも違うと思う。悪いことがあったらやっぱり落ち込むよ。つーか完全に期待を捨てて生きることなんてできないよ。

 街で素敵な人を見かけるとカッコいいなーと思う。自分も少しはいい服を着ていい髪型にしてみたい。だが、普段の足がバイクなので、転倒とか汚れとか考えたらオシャレ服は着ていられない、メットかぶればせっかくの髪形だって崩れる、どっちみちそこに金をかける余裕はないんだし。なら気を遣わなくていいや、という方向に考えてしまう。なのに、そのときは諦めてしまうくせに、ほとぼりが冷めるとまた羨ましくなる。
 結局気付くのは、諦めがつかないわりには実行力の無い、自分のだらしなさだ。バイクに乗るなりのカッコつけ方ってあるだろう? 金がなければ節約すればいいだろう? あーつまり、実は本気じゃないから行動にまで至らないのか。カッコつけたい欲求とめんどくささとが、天秤で量られてる過程なのか。あーつまり! これって自分探し(この歳で)?! そしてそこでまた落ち込んで、というところまで含めた悪循環。
 これは些細な一例であって、本当は生活のあちこちにこんな悪循環がある。総じて、何か行動したいと思うのになかなか重い腰を上げられず、そういう自分に自己嫌悪。そこで沈むからよけいに何をする気にもなれない。そういう悪循環だ。

 ここで気付いたのですよ。悪いことがあるから落ち込むってだけではない。自分で勝手に、より悪いところまで想像の翼を広げてしまうから、さらにしかも長期的に落ち込むんじゃないのー、と気付いたのです。期待を排除して生きることができない、それが悪いのではない。期待が外れても振り回されない強靭さ、それがわたしに欠けているのが悪いのだ。

 ここ数日ずっと考えている。ずっと低調な知人がいる。なんとかして励ましたいものだと思う。しかし、わたし自身が励ましてほしいぐらいの現状なので、いつも言葉が空回りしてしまう。誰かに浮上してほしいと思うのは、その誰かを好きだからだ。好きな人がへこんでいる姿はあまり見たくないからね。わたしはまあ生きるよ、だからあなたも生きといてくれろよ、と言いたい。だけど言えるほど立派な自分じゃないとすくんでしまう。
 そんなら話は簡単じゃねえか。相手を励ますために一念発起すればいいじゃねえか。本当は、本気で相手を好きではないから動けないのか。それとも、単に自分がダメだから動けないのか。そもそも、誰かのためにしか張り切れない自分が悪なのか。そんなことを考えていても相手は励まされない、そう思ったのだったら動けばいいじゃねえか。動いても無駄だったら、また違う方法を考えればいいじゃねえか。

 悪循環を改善したいならば、考えるのをいったんやめて動け。考え過ぎて、これ以上いくら考えてもぐるぐる廻るだけ、そこまでは良しとしよう。けれど、悩むあまりに止まってしまう権利は、今のわたしには無いのだと肝に銘じろ。可哀想なようだが、自分はそんなに立派な人間じゃないと思い知るがいいよ。
 実際にはそんなにうまくはいかないだろう。悩むのは先が見えずに恐いからだ。それでもようやく取った行動がやっぱりハズレで、右往左往している間に年齢だけは重ねてしまって、改めて違う道へと進むにはもう遅過ぎたりするのかもしれないし。二度と動けなくなることと、今動かないことと、何が違うのかと言われればまるで説得力の無い説得だし。
 だが、自分の中の車輪が止まれば、今度こそ本当に二度と動けなくなってしまうんだよ。そっちのほうがよっぽど恐いことなんだよ。

 話は全く関係ないので締めに持ってくるには気が引ける話題ですが。冒頭で紹介した東村アキコの「ゑびす銀座天国」は、集英社の公式サイトにて試し読みができます。コオロギ君大好き。彼の髪型を見てみたい方はこちらでどうぞ。

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「生きてあげようかな」

 「日刊スレッドガイド」という、2ch良スレ紹介ブログを見ていて、ふと、怒りを静める10の方法という記事に目が止まった(元スレはこちらに補完されているようです)。
 挙げられている意見は3つに大別できて、

  • ストレス解消系。スポーツで発散するとか物に当たるとか美味しいもの食べるとか。
  • じっと我慢する系。落ち着いて10数えればたいてい怒りはどっかに行っちゃうよとか。
  • 「相手は人間としてダメだから自分を怒らせるようなことをしちゃうんだ。バカは笑って許してやろう」系。

という感じ。ざっと読んでみると、相手がバカだから放っとく系が一番多い印象。絶望した! 人間の辛辣さに絶望した!

 許せないのはまさしくその最後の一件なんですよね。短時間且つ限られた状況の中でパッと怒りを静める方法を問うスレなので、的外れかもしれないけれど、でもやっぱり、下を見て生きる思想が大変嫌いです。
 そういう思考を繰り返していると、いつしか横滑りしていって、常に相手を見下すことになりかねないから、というのが一つ。そしてもう一つ。逆に自分が失敗をしたときに、それをきちんと反省することなく、ただひたすら後悔するだけの状況に陥りかねないから、ということ。
 ついでに言うと、あんなにつらそうな人もがんばっているんだからわたしもがんばろうってのも、同様に下を見る思想だと思うので大嫌いだ。

 理想は、目指せ「どうでもいい」と受け流せる系。いや単に言葉の問題で、実は中身は我慢系や下を見る系と似ていて、表現の仕方が違うだけなのですが。
 先日書いたことの繰り返しではありますが。自分の失敗はきちんと反省するとして、それにしても、相手の対応が理不尽だときちんと確信できたなら、あとはもういつまでも気に病む必要はない。
 反省を終えた時点で初めて、理不尽な点を指摘しても直らないとか、指摘する必要性さえ感じられないとか、ならばそりゃ相手が事実バカなんだし。怒る理由もなくなるのだ。

 丁寧な過程をたどったという自信があれば、「下を見る系」は自然と「一歩退いたところで隣を見つめる系」に変換できるだろう。
 では、どうやったら自信を持つことができるのか。それはもう考え中ですと言うより他ないんです。こうやって考えたことをいちいちしつこく書き表していくことも、自信に繋げていけると信じているんです。

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客観力を身に付けたい

 もう一週間ぐらいずっと、「しぬたい」のあれかもしれないという文章のことを、もうずっと考えている。身に染みてつらい、と言ったら筆者のトミヒロさんに失礼だと思うけれど、それでもやっぱり自分と重ねて考えてしまう。

「わからないことは何でも聞いて」って言ってたから、仕事中にわからなくって聞いたら「自分で考えて」って言われほったかされて、結局、私も周りもものすごく困る事態が生じちゃって、「なんでわからないのに自分でやろうとするの? どうしてちゃんと聞かないの?」って怒られたりとか、

 「本当に分かってたら失敗しないはずだ、やっぱり分かってないんじゃん。もう二度と失敗すんな、あと分かってるってウソつくのもやめろ」という叱責を何度か受けたことがある。違うと思う。本当に分かってんだけど、なぜかやっちまうのが失敗の本質であるかと。
 分かってるはずなのに失敗しちゃうのはなぜかなあ。単に疲れていて必要な手順を疎かにしていたり、やっぱり分かってないってことに自分でも気付いていなかったり、そもそも自分で自分が分からなくなるような手抜きな生活をしていたり、そういうことだろうか。ならば責任は自分にある。信用されて任されたのに、信用に足るだけのことをしていないのだから。

 しかし、いけないことだと分からずやっちまうのは、失敗とは言えない。無知は、恥かもしれないが、失敗ではない。知っていて当然のことなのに、怠惰によって勉強せずにいたのでない限り、無知は失敗じゃない。しかも、指導者がきちんと指導していないことのほうが、原因としては大きい。
 初心者が事に不慣れなのは当たり前で、それを差し引いても任せようと判断して、或いはそこをよく考えずに任せてしまって、あまつさえ適切な指導をせず、ならば責任の大部分は指導者にある。指導者が直接決めたことでなくても、指導者 *側* に責任がある。「分かってねえなあ」ではなく「ここを、分かってねえんだよ」と指導する責任が、一番おおもとのところにある。

 暴言を吐かれて不愉快になるのは当たり前だけれど、だから相手が悪い、と思ってしまいがちです。わたしはね。それはそれとして横に置いておいて、自分は何が悪かったのかを反省すること。
 そして一番重要なのは、自分の悪い部分と相手の悪い部分とを比較しないこと。あと、あれだけ相手が言うんだから、自分だけが一方的に全面的に悪いに違いない、という思い込みも大敵。どっちもどっちでわりーんだからさあ。

 問題は客観性。
 卑屈になってはいけないし、不満ばかりになってもいけない。自分を過大評価も過小評価もしてはならない。指導者を過大評価も過小評価もしてはならない。きちんと自律できているのか、指導者に不足はないのか、自信を持って判断できるだけの客観性。
 自信を持つというのは最大級に難しいことだががんばって生きていくよ。

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ニュースを見てて思ったことを書いてみた

我 「このニュースこえーなー」
彼 「何? 長久手の拳銃発砲立てこもり事件? あー、恐いね。身近にあんなキチガイがいたらと思うと恐いよね」
我 「いや、そうじゃなくて、このおばちゃんさあ、」

 事件で殉職した警官の葬儀。TV画面に大映しになっている女性。泣いている。「前途ある若者が亡くなって、こんな悪者が生き延びることは、許せない!」というような字幕。(注:見ていたのは、NHK「ニュースウォッチ9」と、ABCテレビ「報道ステーション」です。例によって台詞は記憶で書いているので正確じゃありません、すみません。)

我 「これって、悪人だったら逝って良し、ってそういう主張だよな」
彼 「そうだろうなあ」
我 「それが恐いよ。殉職した青年への哀悼の意とか、それはさておき、悪人なら死ぬ義務があって善人は生きる権利があるって、一般人のおばちゃんが言っちゃうのって、恐くね?」
彼 「そうかな。当たり前じゃないの。例えば近所の人にとっては自分の命が危険なわけだし、相手が説得に応じなければ、排除されるしかない」
我 「誰かが悪人か善人かって、じゃあ、誰が決めんの」
彼 「誰かが決めるまでもなく、この事件の場合は発砲しちゃった奴が悪人じゃん。殺すつもりはなかったっつっても、そもそも、人を殺傷でき得る能力を、拳銃って形で所持してたわけだし」

 ここで画面に識者の登場。警察の対応の遅れを批判して、「早期に決着をつけるべきだった。海外ならば射殺も免れない」と発言。

我 「もしさ、犯人の近しい知人が、あいつに更正してほしいって思ってたとするじゃん。それでも悪人は死ぬべきってこのおばちゃん言うのかと考えると、こえーよ」
彼 「おばちゃんがどう思うかはともかくとして、銃を持ってたらあかんつーのは法律で決まってるだろう、言い逃れはできねーよ」
我 「じゃあさあ、殺人や拳銃所持の罪については、裁判とかで時間をかけて裁かれるべきだよね。もしこの場で警察が犯人を射殺しちゃってたら、それって警察の越権行為?になんの?」
彼 「治安維持のための現場判断は、越権ていうのとはまた違うんじゃないかなあ」
我 「でもさ、そんであのおばちゃんは『安心しました、悪人が死んでいい世の中です』って言うのか? 善人が生きることと悪人が死ぬこととはイコールなのか? それは納得いかん、納得いかんなあ」

 亡くなった警官の上司が、「なぜ若者がこのように死ななければならなかったのか…」と述べている。
 と言う間に、画面変わって、違うニュース。いわゆる300日規定について。

我 「このニュースもちょっとよく分かんね。まずさ、産まれた子供の出生届を出さねばならないっていうのは、日本の法律に基づいた日本に住む人間の義務なんだよね」
彼 「うん」
我 「現状、300日規定で不利益を被っている人の中には、出生届を出していない人もいるじゃん。心情的に前夫の子として届け出をする難しさも、現実的に現夫の子として届け出をする難しさも、両方分かるんだけど」
彼 「それで」
我 「つまり、法律を守っていない立場で、法律を変えてくれって言ってるのは、なんか変な感じがする」
彼 「例えば、今現在銃を所持している人間が、銃を手放したくないから、銃を持つ権利を要求するみたいな?」
我 「あーそうそう。義務を放棄しつつ権利を主張することは、なんか変な感じがする」

 画面に、抱かれてすやすや寝ている赤ちゃん。母親が「今回の改正によって、ようやくこの子に戸籍がもらえました」と言っている。

彼 「その言い分は分かるんだが、300日規定の話に限っては、なんでかな、義務を放棄してるって感じが薄いな」
我 「あ、そうか、なんか分かった。弱い立場にいる人は、それだけで不利益を被ってるんだから、義務を満たしてなくても許されるような感じがするんじゃね」
彼 「あーなるほど。より強い立場にいる人間がより大きな権利を主張することができない社会がうまく構成されてるのは、いいことなのかもしれん」
我 「でも、それこそ感情論だよね。強い立場は不利益が当たり前で、弱い立場は守られるべき、っていうのも、公平じゃないじゃん」

 本来なら、こういう記事を書くならば、問題に関わる法律を充分に調べるべきなのだろう。いくつかのサイトを読んではみたのだが、何かわたしの疑問とは違う部分を突付いているだけのような気がして、やめてしまった。
 公平さとか人間のありようとか、それを考える材料として法律が準備されているわけではない。相当迷うのに、こうして放り投げてみる。

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