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さて引き続き、3作目「図書館危機」の感想です。
この巻から、登場人物紹介とあらすじが付きました。次の巻で終わりなのに。あと、メインの登場人物はあまり多くないし人間関係は分かりやすいので、相関図はいらないんじゃないのと思ったりした。
そういえば、ラノベとして考えるんであれば、本文内に挿絵が一切ないのはマイナスポイントなのかなあ。ですがわたしはこのシルエットだけの絵が気に入っております。この作品は、文章だけで充分キャラ萌えできるのが素晴らしい。
amazonのレビューでも書かれていたが、表紙が秀逸だ。実はネタバレというか、ここにあらすじが詰め込まれていたりするのですよね。
メインストーリーは、第1作の戦闘シーンと第2作の心理戦と、両方のいいとこ取りです。が、全編に渡って、今作も再び恋愛風味で歯痒い。
冒頭で引っかかったのが、混乱する郁に対して小牧がアドバイスした中の、「じゃないとあいつも浮かばれないよ
」という言葉。
郁に限らず女性に限らず、恋をしていれば誰でも、相手が自分を好きでいてくれればいいのに、と思うものだろう。恋しい相手をまっすぐ捉えることが、相手にとっても嬉しいことだ、と言われればそれは相手も自分を憎からず思ってくださっているってことじゃあないのか。
郁は、熱血バカだの山猿だの宣伝文句で言われてるけども、作中ではそこまで頭が悪くないと思う。それなのになぜ小牧の意図を理解できないのか。慎重な小牧がそんなこと言っちゃっていいのか。それでも、それ以上に、恋は不安だって言いたいがための描写なのかなあ。
あと恋愛云々の絡みで言うと、普通あんなに人の頭を触ったりしないでしょ!と声を大にして叫びたいわホントに! もしも好意に基づく行為ではなかったとしても、叱るためとかだったとしてもですよ、他人の身体にそんな不用意に触ったり触られたりしないでしょ日常生活だと!
それはわたしが不健全な毎日を送ってるからなのか。励ますときに肩を叩くぐらいはわりとよくある光景なのか。これはちょう最大の謎。この謎を解明するために今後もがんばって生きていきたい所存です。
図書館シリーズを読んでいて初めて落涙したのが、両親との和解に繋がる場面です。前作では、父はどうやら郁の理解者である旨が描かれていましたが、今作ではさらに母と郁との対立が描かれています。
子供がどんなに完璧な人間で親がどんなにダメ親であっても、親にとって子供ってのは自分を超える存在ではないんだろう。常に不満があって常に文句があって、裏返したらそれは愛情なのかもしれないけれど。理解して且つそれ以上に理解されようと努力しない限り、それが愛情だなどとは思えない。
知人の話なんか聞いてても、うちはもっともっとひでーですわ、としか思えないのに、こういう作品でこういう状況に出くわすと、素直に納得しちまう。1作目で、背伸びした中学生たちを「痒い」と評していたけれど、こういうシーンも充分痒い。
しかし戦略的思考には慣れない。初めからある結末に向かって進むしかない状況が準備されていたとして、それを一から丁寧に説明してもらったとしても、読み解くのが苦手なのです。
茨城に図書隊が出動することが決まった時点で、稲嶺司令はその座を退く以外なかった。前作で郁が受けた査問にしても同じだ。こう言ったら次にここを突かれるからこう答えておいたほうが穴が無い、とか。
わたしがそういう思考が苦手だからなのだが、こうもするすると物語が進むのは、悪い感じのセカイ系というか、でもまあ起こらなかった歴史も歴史だとはよく言われることだけれど、文章だと特筆されない出来事なんていっぱいあるよなあ。
しかしまあ、1作目を読んだときには「淀みなく進むのが気持ちいい」だったのに、今回は流れるように読め過ぎて不満だつーのは、ちょっと言いがかりっぽいね。心情については引っかかったり頷かされたりするのに、メインストーリーが滑らかなのは、読み方が悪いせいだよなーという反省なのでした。
1作目が去年の2月、2作目が去年の9月、この3作目が今年の2月。最終巻の4作目が発売になるのはきっと秋頃なんだろう。楽しみにしながら既刊を何度も読み返そう。