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先日、1作目の「図書館戦争」を読んで大変おもしろかったので、続刊の2冊もさっさと買ってきた。ちなみに、あとがきによると、あと1作でシリーズ終了なのだそうです。好きな本を見つけた途端に間もなく終わってしまうことを知らされるのは、ちょっと悲しいなあ。
まず、2作目「図書館内乱」の感想。
作品全体が恋愛風味なの。前作の激しさを知っているのでよけいに、この展開はもどかしい。なかなか関係が進展しないって意味でももどかしいし、スカッとするような派手な戦闘シーンが無いのももどかしいの。登場人物同士も、図書館VS良化委員会も、ずっと心理戦を繰り広げておる。
特に、小牧教官の受けた査問シーンや、柴崎が周りからどのように見られているかという描写は、わたしには大変恐ろしかった。郁と堂上教官との心理戦はこの際置いておこう、あーあー恋! したい! ああいう青春!
しかし、心理戦をそのまま文章で描いても、読者には恐ろしさは伝わりにくいのではなかろうか。想像力は感情の方面には広がりにくいのではなかろうか。恐怖をそのまま文章にしても、同等の恐怖を味わったことがある相手でなければ、伝わりにくいのではなかろうか。
たかが飲みさしの茶をぶっかけられたぐらいでどうしてそんなに屈辱に感じるのか、そこに共感できるのは、実際にそれを経験したことのある人だけなんではないかなあ。少なくともわたしの話ですが、そこで小牧の気持ちになってみようとしてしばらく苦労した。
あーでもさーちょっと話逸れるけどさー、わたしはまともな就職活動を経験せずにこの歳まで生きてきたけれど、圧迫面接とかってああいう感じなのかなあ。
心理描写ということで思い浮かんだのが西尾維新の戯言シリーズである。ちょうど先日、知人がクビキリサイクルを読んだということで、感想とか話してたんです。
戯言シリーズは大変に不親切である、と、わたしなんかは思う。登場人物が何を考えたのか、どうしてそういう思考に至ったのか、はっきりしない。だから登場人物同士の人間関係なんかもよく掴めない。まあそこらへんははっきりと切り捨てているんだろう。
それはともかく、図書館内乱と戯言シリーズと、どっちの文章に「恐怖」が強く表れていると思うか?と問われれば、戯言シリーズのほうがわたしには強い。それはひとえに文章の勢いだ。
柴崎が、どうしてそういう性格に育ったのか、細やかに説明されていればいるほど、共感できない。そうかなるほどな、とは思うけれど、やっぱりそれは第三者として柴崎を見たときの感想。
翻って戯言シリーズでは、単なる単語の羅列があんなに恐ろしい。それは、物語の状況に対する恐怖ではありません。なんだか分かんないけどページの見た目から受ける恐ろしさを、ストーリーの中で語られる恐怖に、置き換えて感じてしまっているだけだ。
文章の限界ってそこらへんにあるのかしら。それともこれは、わたしの限界なのかしら。それとも、要するに柴崎には共感できない、という、わたし個人の好き嫌いなのかしら。
というか、別に共感する必要はないですよね。共感できなければ相手を受け入れられない、というのは、郁が未熟なのと同じ理由だ。本を楽しむのにこんな理屈は本当はいらないじゃん。
なんだか否定的な論調になりつつあるが、つまらなかったわけではありません。期待を込めて「図書館危機」を読んだのであった。