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わたくしことkanakanaが、思ったことを書き散らす場です。

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神経質であること

 人の些細な言動がとても気になる。直接付き合いのある相手に留まらず、例えば街を歩いていてもすれ違う他人が気になったりする。それでふと嬉しくなったりする方面なら良いのだが、イライラさせられる場合のほうが多い。
 それでも、鈍感で無神経で、誰かを傷つけても平気な人よりはマシなんじゃないかな、人に傷つけられるのは自分の一方的な都合なんだから、そのリスクを受けてでも細やかなほうがいいんじゃないかな、と思っていた。わたしからこの性質を取ったら、性格的な長所は何も無くなってしまうんじゃないのかな、と不安に思っていた。
 だけどここ数日冷静になって考え直してみると、細やかさと神経質なのとは全く別問題ですね、ということに気付きました。

 知人と仲違いをしてしまったのです。

我:これこれこういうことがあって、イヤな気持ちになったんだよね…。
彼:気にすんなよ。
我:気にするなって言われて気にせずにいられるのは、そうできる才能を持ってるからじゃん。できない人相手にそれをアドバイスされても、哀しくなるだけなんですが?

 上記のようなやり取りを経て、「わたしはこんなにお前を気遣っているのに、お前はどうしてわたしを気遣ってくれないんだ、ムカつく」と一方的にまくしたてて、相手を悲しい気持ちにさせてしまったのです。しかし仲違いから数時間を経て冷静になって、ものすごく後悔した。喧嘩したことについてだけではなく、自分がいかに愚かだったのか思い知らされたのです。
 カギカッコ内の心の動きを詳しく分析してみると、前半部分は確かに細やかなのかもしれないが、中半部分は神経質なだけで、そして後半部分はまさに自分が無神経になってしまっていることに、気付いてしまったわけです。なぜそこに気付かなかったか分からないぐらい、今は後悔しているのです。

 というか「中半」って変な言葉。前半と後半とで半分ずつなんだから、中半っていうのは変だな。こういうことが気になってしまうのも、神経質なのかなあ、それともそれは細やかさなのかなあ。
 だけど、長所と短所とを分けて考えられないのは、マイナスにしか作用しないのかもしれないなあ。自分の性格のある一点を取り上げて、長所でもあり短所でもあると主張する、それはいいかもしれない。だけど、長所でもあるのだから短所を捨てられない、というのはおかしい。長所部分に伸ばして、短所部分をなるべく減らす努力というのは、できないものだろうか?
 神経質でありつつ鈍感に生きてこられたのだから、全部引っ繰り返してみればいい。細やかでありつつおおらかに生活することも、今更難しいかもしれなくても、可能なはずだ。

 難しいのは、どうやったら他人にイライラせずに生きられるのか、という、結局その一点。そしてその答えは今のところ「気にしない」ことしか無さそう。
 「気にするな」と言われて怒ったのは、相手のアドバイスが理不尽だからなのか。わたしができないことをできる人は羨ましい。だけどそれは、才能ではなく、もしかして努力によって身につけた性質なのかもしれないのに、どうせわたしには無理なんだと諦めて怒った。それは、努力が面倒なことを秘匿して、怒りにすりかえて見せただけなんじゃないのか。

 今はひたすら仲直りしたい、それだけでいっぱい。だが、ここで焦ってしまっては、また、強要するだけだ、仲直りを性急に強要してしまってはいけない。今までたくさん間違ってきたけれども、ここからやり直すことをきちんと見てもらうしかない。相手が今後もわたしを理解してくれることを信じて待つしかない。いや、待つだけではなくて、慎重に正しく行動していくしかない。
 もちろん、無闇に自分が悪いと思い込むことも間違っている。だが、冷静にいろんなことを考え直してみて、やっぱりここはわたしの悪い部分だと素直に思えたのだから、これは正しい結論なのだろう。生まれ変わりたいです。生まれ変わります。

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百均でシャンプー容器を買うの巻

 エコバッグに続くモノレビューシリーズ第2弾、ダンダンダンダン! 今回は「シャンプーの容器について」です。ハッしまった、弾とダンとを掛けたつもりかい?みたいになってしまったではないか。ダンダンダンダン!っていうのは、中太鼓とか大太鼓とかそういう音をイメージしてください。

 風呂なし安アパート住まいなので銭湯通いが欠かせないわけですが、シャンプーやなんかの大きいボトルをわざわざ持ち運ぶのは大変なので、旅行用の小さいボトルに中身を詰め替えて使っています。固形石鹸も、フロバッグの中でガッタンガッタンなってグチャグチャになっちゃうからね、好きなんだけどね、論外なのよね。
 たまにバイクで遠出して観光地の風流銭湯へ向かいたいこともあるのですが、バイクで運ぶことを考えると、やっぱり大きいボトルは持ち運びにくい。これ先述の服畳み問題とも関わってきますが、メリットとデメリットとを比較して熟慮するに、詰め替えもそう手間ではなくなったのです。

 で、今まで使っていたのはこちら。ドラッグストアやスーパーでよく見かける商品なのですが、販売元や商品名は分かりませんすみません。

furo_old

 これはなぜか2番と書いてあります。同サイズ色違いの1番とセットで、いくらぐらいだったかな、なんか980円とかけっこう高かった。1番をシャンプー入れ・2番をリンス入れと設定しておくと、使用する順番と相まって記憶することができ、使い道を誤ることもなくなるでしょう。
 こいつの蓋を開くとこんな感じ。

furo_old_open

 き、汚えー! 驚くほど汚れています。使わなくなって10日ほど経つのですが、その間洗っていなかったのが敗因ですね。リンスがこびりついてしまっています。まあもう写真も撮り終えたし、すぐさま捨てるからいいんだけどな。書いた端からゴミ箱に放り込んでやったぜ。
 この商品は、穴といいボトル全体といい、大きさが絶妙で、ずっと愛用していました。しかし問題は壊れやすさとその値段。ちっと落とすとすぐにヒンジが歪むんだこれが。汚い図を見ていただくとお分かりかと思いますが、蓋の上部に穴を塞ぐための小さいポッチがついているのね。ヒンジが歪むとこのポッチがずれて穴にうまく挿入されなくなるのね。結論:フロバッググチャグチャ。

 で、新しいものを買い換えようにもその値段に耐え切れず、ついにわたしは百円ショップへ放浪の旅に出かけました。だけどなーヒャッキンだととにかく安いのはいいんだが、なかなかちょうどいいのが売ってねーんだよなー。
 ヒャッキンで「シャンプー用」と銘打たれている容器は、ポンプ式でボディ部分がプラスチックのものが多い。あれはダメだ。あれはいかん。なぜならポンプがフロバッグ内でいつの間にか押されてしまって、結論:グチャグチャ。ポンプを固定するためのつっかえばさみ(?)やポンプ部全体を覆うキャップが付属しているものも試してみましたが、すぐに管が詰まってしまったりして、やはりあまり使用に堪えませんでした。

 しかしわたしは諦めなかった。すごい。諦めなかったらついに求める物にたどり着いた。夢を持ち続けることは意外に大事だ! 世の中そう捨てたもんでもなかった! くら寿司二条店隣接のヒャッキン最高!
 出会ったのがこちらの商品です。中身が入ったままなので撮影に気を遣いましたが、そのあたりの空気感がよく表現されていると思います、いかがでしょうか。

furo_new

 これフタんとこどうなってんのかな。店頭で手に取ったときは、そう思いました。店の中でパッケージを開けて確認するようなドキュンな真似もできず、気弱なあまりに開けてみていいかと店員さんに問うこともできず、まーどーせ100円だしーダメでもともとだしー、試しに購入。帰宅。開封。オープン!

furo_new_open

 な!る!ほ!ど! よく見るとフタのヘコミ部分に小さく「PRESS」と書いてあって、ポチッとな、するとこれこのように、かわいらしい小さな穴がお目見えするわけです。ウフフウフフ。「ふたのへこみ」って人名みたいだな。ウフフウフフ。
 んでねこのボディがまた素晴らしい。柔肌の如き感触で、ボデーを押せば押すだけ白濁液が溢れ出てくる仕組みです。どんだけ柔らかいかと申しますと、マヨネーズの容器を想定していただくと分かりやすいかと思います。昨日は中身を詰め替えるのを忘れてて、やべー足りねー、ギリギリまで押し出して使おう、と思って握り潰したらちょっと折れ筋がついてしまった。そんぐらい柔らかい。

 ここまで10日ほど使っていますが、やはり安物なのでフタとボディの隙間から少しシャンプーが漏れるときがあります。しかし以前の愛用品故障時に比べればその漏れも全くの許容範囲内。いたく感激したので早速この容器を採用することにして、シャンプー用のピンクに加えて、リンス用の青とボディシャンプー用の黄色を買ってまいりました。すげーなヒャッキン、まだまだ捨てたもんじゃねーなー。
 なお、帰宅してから「百円ショップ シャンプー」などと検索して分かったのですが、ドレッシング用のボトルを流用するのもいい感じらしいです。なるほどねー、あれならネジ式のキャップが付いてて漏れにくいだろうし、適量ずつ出せるから使いやすいかもしれんね。
 ちなみに各商品の大きさはこんな感じ。皆様も百円ショップにてシャンプー容器をご用命の際には是非ご参考にしてくださいますよう。

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エコバッグ

 携帯電話が好きで好きでたまらないので、ケータイ Watchというサイトをよく閲覧しているのですが、このサイトの本日の一品という企画が謎だ。携帯に関係あろうとなかろうとお構いナシ、いろんなもんをどんどん紹介してくれやがる。で、今日紹介されていたのが、これです、エコバッグ。今、もらって一番うれしいノベルティは「エコバッグ」かもしれない、という記事。
 エコバッグ流行ってますねなんだかね。ちょっと前に、ブランド物のエコバッグを配布するだかなんだかであまりの長蛇の列にキレた主婦が暴徒と化した、とかいうニュースを見かけたが、主婦はさておきブランド物のエコバッグてのはいいかもしれんね。使わなきゃもったいないような気がしてしまって、ビニール袋削減には効果アリアリかもしれませんね。

 わたしは普段使いにCRUTTOというエコバッグを使っています。雨合羽とかヤッケとかでもよくありますね、畳んで丸めて小さく持ち歩けるようなもの。使い方は機能説明のページで詳しく説明されています。柄がかわいいのと、いくつか小さいポケットが付いているのが何気に便利なのと、何より作りがしっかりしていて丈夫なのと、いい点もあります。しかしこの「クルット」、意外に使いにくい。
 というのも、きちんと畳むというのは想像以上に面倒な行為なのである。うちの洗濯物は干したら次に着られるまでハンガーっぱなしなことからも、お分かりですね、ご理解いただけますね。まあ慣れたらどうってことはないんだろうけれど、というかそんなことは子供のうちに習慣としておくべき事柄なんだろうけれど。
 とにかくクルットはわたしには少々使いにくかった。適当にぐしゃぐしゃ詰め込んでも丸めることは丸められるが、コンパクトに持ち歩くというには程遠い感じにグシャグシャになってしまいます。あと高い。ポリエステルのトートバッグに1890円ってな高いだろ。
 で、いいなあと思ったのが冒頭のシンプルエコバッグだ。何より畳み方が簡単なのが気に入ったし、クルットよりさらに小さく持ち歩けるのも好感度高い。所詮コンビニ袋の代わりなのだから、このぐらいペラいものでも充分に役割は果たすと思うのです。

 書きながら唐突に思い出したんだが、わたしのクルットはなかなか不遇を託っていてですね、買った数日後に端っこが破けたのである。あれはそう数年前。知人が引っ越しに伴い不要の炊飯器を譲ってくれるということで、喜び勇んだわたしはサイズがちょうどぴったりなクルットを持ってバイクで炊飯器を受け取りに行ったのです。
 悲劇はその帰り道でした。踏み切りで電車が通り過ぎるのを待っているわたしに、横から自転車が激突、哀れバイクは横転、炊飯器真っ二つ、クルットはアスファルトに擦れ破れてあられもない姿になってしまったのです。ウソです。本当はちょっとしか破けてません。繕うまでもなく引き続き使えています。丈夫だったので嬉しかったです。
 右で同じく踏み切り待ちをしていたトラックが、自転車のねーちゃんに「通りな通りな」とハンドサイン、しかし電車はもう間近まで来ている、焦って会釈しつつ大急ぎのねーちゃんが、死角にいたわたしに気付いていなかったという、まあいわゆるサンキュー事故の変型版ですね。自転車は転びもしなかったのに我がバイクはナンバーが曲がったりして大変恥ずかしかった。しかし双方ともケガはなく、よかったよかった。皆様も事故には重々お気をつけください。

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危険思想

 「自分がされたら嫌なことは、相手にもやってはいけない」、とよく言いますが、これってどうなんかなとか思うのですよ。たまにひねくれたお子様がいらして、「自分は誰かに殺されても構わないから誰かを殺してみたい」などとおっしゃいやがる。そこまで極端な例でなくても、自分の行為が人を不快にさせる可能性があるってことに気付かない人は意外と多くて、世の中は小さな不満で溢れてるわけです。
 で、このよくある教えを、丸ごと引っ繰り返してみたらいいんじゃねえかなと思ったのですよ。シャワー浴びながらふと思いついたのです。どうだろうコレ。

  1. 自分がされたら→相手にやったら
  2. 嫌なことは→喜ぶことを
  3. 相手にも→自分で
  4. してはいけない→ガンガンやろうぜ

 わーどうだろうコレ。1で社交性が、2で想像力が、3で主体性が、4で積極性が、なんかコレいいこと尽くめじゃね? どうだろうコレ。つーか冒頭の教えに基づいて育ったのって、わたしぐらいのもんなのかどうか。

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イベントをつくる側

 京都では、祇園祭が過ぎると梅雨が明ける、と言うらしい。例年なら山鉾巡行の翌日にはそれまでの曇天がウソのように青空が広がったりするのに、今年はその言い伝え(?)も少しハズレ気味で、先週もずっと雨模様だった。昨日は久々に洗濯日和でした、そろそろ梅雨明けなのかな。
 さてもう10日も前の話題になってしまいますが、大きい台風も来ていましたね。雨が続いたのは台風のせいもあったのだろう。その影響で、中止になった花火大会・お祭りなどもあったようだ。そこらへんのニュースを見て回っていると、ちょっと気になる文章を見つけた。

 発見したのは、京都大作戦2007という野外音楽イベント。京都に住んでいながら全く知らなかったが、京都にゆかりのあるアーティストが京都で野外演奏を、という趣旨の音楽イベントだそうだ。イベントの趣旨はさておき、わたしが引っかかったのは、主催者である「10-FEET」というバンドの、イベント中止のお知らせ。

設営班の人たちの話しでは台風ともなると特設ステージなどは簡単に損壊してしまうとの事なのです。
さらに荒天になった場合避難できる場所も無く危 険性が高いという事で中止となりました。

 また、「10-FEET」公式サイトでの、メンバーコメントには、こうある。

設営班の人たちの話しでは「台風が通り過ぎないとスピーカーも吊り下げられずステージも設営できない」との事、台風ともなると野外ステージなどは簡単に損壊してしまうとの事なのです。さらに荒天の中、避難できる場所も無く、危険性が高いとの事で中止となりました。

 これを読んでわたしは、なんというか暗澹とした気持ちになった。
 単に書き方の問題なのかもしれないが、学生時代、サークル活動でずっとイベントの裏方を務めてきたわたしとしては、設営班の人たちの話しでは~との事、という表現は、とても悲しい。「設営班」が、イベントを運営する集団から一歩離れた所に立たされているような表現だな、チームには入れてもらえないんだな、と感じてしまったのだ。
 まあ確かに、演奏するバンドにとっては音響やお客さんのほうが身近な存在で、本来はステージ設営はあまり深く関わるポイントではないので、気持ちは分かる。だけどね、イベントが無事終了したときの乾杯が、バンドにとって究極の一杯ならば、設営班にとってもそれは同様に至高の一杯なんだぜ。そこの気持ちも分かってほしい。

 このバンドが、何故この時期に野外でイベントをやろうと思ったのか、野外でやることのリスクは充分に考えていたのか、そのあたりも気になった。こうしたイベントで「主催者」が何を行うのか、外からでは見えにくいものだ。この業者を選んだのが主催者本人の判断だったのかどうか、どういう基準でその業者に依頼することに決めたのか、それも分からない。
 夏の野外イベントに延期や中止は付き物だし、無理をおして開催に踏み切っても、確かに危険だったり交通事情の悪化でお客さんが集まりにくかったり。普通に台風のニュースを追っているだけでも、怪我人がたくさん出ていることぐらいは分かるはずだ。そもそも、ステージ設営の様子をきちんと見ていれば、そんな天候の中で作業を行うことが、まず第一に設営班にとってどれだけ危険なことか、分かるはずだ。

 こうしたイベントでステージ設営を任されるからには、恐らく「設営班」というのは、プロのステージ設営業者なのだろう。
 プロは賃金をもらう代わりに最善を尽くす。わたしはそういう場面を何度も目にしてきた。賃金の代わりにどんな大変な仕事でも遂行するのがプロなわけじゃない、仕事に見合った賃金をもらうのがプロなのだ。プロの見極めによってダメだと判断されたなら、それは本当にどうしようもないことなんだ。
 そして逆に、設営班が、お金で動く集団であるが故に、チームの一員として迎えられないのだとしたら、それが一番悲しい。お金の有無は、イベントを成功させようという心意気には、あまり関係が無いのに、そこを分かってもらえながちなのが、一番悲しい。

 わたしはステージ設営のプロではない。そちらの道への適性もなかったので、憧れだけで楽しく続けられる職業ではないと思ったので、プロになることも諦めた。それでもやはりこういう文章を見てしまうと辛い。憧れもろとも否定されたような気もして、ますます辛い。こんなことで辛くなってしまうからこそ、プロに向いていないのかもしれない、アマの考え休むに似たりってなもんかもしれない。
 もしかしてこの「設営班」は、プロの業者ではなかったのかもしれないし。書き方の問題だけで、本当は主催者と充分に話し合われた結果の中止だったのかもしれないし。運営班の物言いがまずくて、主催者はこのような書き方をせざるを得なかったのかもしれないし。それは分からない。分からないのに、推測と断定と思い込みの激しさだけでこういう文章を書いてしまうことをお詫びします。

 だけど知ってほしいのです。今週末フジロック観にいく方や、その他にもいろいろ夏のお出かけを楽しむ方に、気付いてほしい。
 チケットの値段はこうした苦労にかかるお金で、そのステージにはそれ相応のプロの仕事も関わっていて、プロというのはステージ上で楽しませてくれる方だけじゃなくて、そしてそれを楽しむあなた方の存在なくしては、イベントは成立し得ないということ。あなた方がお金を払ってくれるから単純にイベントを運営できるのではない。あなた方が喜んでくれるから、その価値のあるイベントをつくろうと思うんだ。
 まあ深く考え過ぎてもアレだけど、行く前とか帰ってきたあととかに、そんなんをふと思い出してくれれば嬉しいです。よ。

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