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そういや書いていなかったので、今更ながらリンクに関する考えを。
本来的には、ウェブ上の全てのページは自由自在に繋がっているべきだ、と思っています。
わたしがリンクをする場合。
自分に足りない情報を、知識のある誰かに補ってもらうことは、大いに有効だと考えます。現在では、回線速度やPC性能などを気にする必要性は少なくなりつつあります。ならば、わたしの拙い文章よりも、有用なサイトを直接見ていただくほうが、確実に確実だろうと考えます。
情報元を明らかにしない無断転載は言語道断。ですが、リンクを張ることと転載することとは、全く意味が違います。転載することと引用することとも、また意味は違います。ある情報に感銘を受けて何かを考えた場合、リンクや引用をした上で、自説を展開するようにしています。
各種のリンク禁止な注意書きには、納得がいきません。何らかの理由があってそうした主張がされているのだから、文章の書き手への敬意を持ちつつも強いてそれに反することを、申し訳なく思うことも多々あります。しかし、納得できない注意書きに無条件に従うことも、やはりしたくないのです。
わたしがリンクをされる場合。
以上を踏まえた上で、なんだか恥ずかしくなってきたのでノーコメント
締めの言葉に代えて、わたしがリンクに関して考えるきっかけになった文章を紹介します。
中学生の頃からの肩こり症に悩まされている。一番の原因は運動不足なんだろうなーと、これはもうはっきり分かっているのだが、まあしかし分かってはいてもなかなか運動はしないものでございます。二十歳を過ぎたあたりから、肩こりに加えてときどき頭痛もするようになった。そもそも目が悪く姿勢も悪く顎関節症でおまけに喫煙者。もしかすると頭痛ではなく、血行不良があまりにひどいための過剰肩こりなのかもしれない。
知人に「頭痛って、水分をキッチリ摂ってないとひどくなるような気がする」と聞いたので、そのように心がけたら、少しはマシになったような気もする。それでも、ときどき夕方あたりから目の奥辺りが重くなってきて、我慢していても結局寝付けないほどひどくなるので薬を飲む、というのが毎回のパターン。頭痛薬なんて昔は飲んだこともなかったのだが、いまでは常備。
しかし、いつもは薬局で「一番安いやつを」と選ぶだけで、これまで薬について真面目に調べたことがなかったので、Google姐さんにご助力を願うことにした。各種成分の作用・副作用や、それぞれの症状に適した市販薬など、調べたことをだらっと書こうと思ったのですが、綺麗にまとまったサイトをいろいろと発見したので、素直にリンクを貼ります。
また、「おくすりナビ」の、こちらやこちらで知ったのですが、血行不良を改善するヘプロニカートという成分があるそうです。ヘプロニカートのサプリメントでも買ってみようかしら。
とあるブログを読んでいて、思うところがあったので意見を述べようとしたら、コメント欄がなかった。まあ書きたかったのは些細な一言なのでそれはいいんだけれど、驚いたのは、コメント欄がないことにガッカリした自分の感情だ。
誰かのウェブサイトを見ていて、当然のように筆者や読者と意見交換ができると思い込んでいたその前提が、我ながら少し面白かった。
ちなみにそちらでは、意見のある場合はソーシャルブックマークでお願いします、と記載されている。なるほど、正負どちらの方向であれ、話題として取り上げられることはイコール宣伝になるんだなー。SBMをブログの筆者が積極的に利用している事例を初めて見たので、感心した。
そしてわたしはどこのSBMも使ってないのでそのブログに意見する資格がない。あと、SBMをコメント代わりに使うならば、読者同士の交流はわりと切り捨てられがちだと思う。
んで、話はだいぶ逸れますが、2chのスレ紹介ブログって、わたしは昔はあんまり好きではなかったのです。だけど最近はよく読む。これは自分の2chの利用方法が以前とは変わってきているからだと気付いた。
昔は2chは意見交換の場だった。もう少し広げて、交流の場、とか。情報提供してもらう代わりに情報提供したり、まあ拙いなりに自分の意見を書いたり、あんまスレとは関係ない会話を楽しんだり。
それが最近は情報源として使うようになってきている。ちょっとしたことを調べるには、Googleで世界中を検索するより、該当スレを見つけてスレ内検索するほうが、手っ取り早かったりする。ログは、定期購読するものではなくて、いざってときのために蓄積しておくものになった。
2chが情報源としてそれなりに信頼に値するものに変わってきていることとか、わたしがチャットやTwitterなんかの他の場所にて淋しさを埋め合わせることを覚えたからとか。いくつか理由はあると思うんだけど。
一番大きいのは多分、ノイズに耐えられなくなったせいだろう。元スレをそのまま参照すると、面白いレスを楽しむだけで済まない。それにまつわる余計なレスのほうがよっぽど多い。そしてその余計なレスを楽しむ余裕が、わたしに無くなってきたのだと。
だから、重要な部分を抽出したスレ紹介ブログは有用。そして今度はブログ筆者の選別センスが問われたりする。
だけどまあ、誰かが一般的に面白いと思うことはたいてい他の人にも面白かったりするので、そこらへんのセンスは実はあまり重要ではないのかもしれないが。
んでブログの話に戻るけれど。
交流という小さなメリットを切り捨ててでも、荒れたりとかノイズとかの大きなデメリットを回避する。これは、わたしの目指したい方向とは明らかに違うけれども、なるほどそういうやり方もあるのだなーと感心した。
わたしは基本的には自分のために文章を書く。覚え書きであったり、書いて整理して落ち着くためであったり。誰かに意見を求めたいこともあるが、それは結局その意見を自分にフィードバックするためのもの。
だけどやっぱり2番目には、誰かのためになる文章を書きたいとも思うのだ。共感されたり反感をもたれたり、ネタ提供になったり、暇潰しになったり。なんでもいい、どんな意味でもいい、我が文を楽しんでほしい。
そんで、楽しんだことをしるせる場所があったほうがいいな、と思うのだ。強制するわけじゃない、そうしたいなと思ったときに、そういう場所は準備されていたほうがいい。
それと、上で「誰かの意見は自分にフィードバック」と書いたが、誰かの意見がさらにまた別の誰かにフィードバック、これも重要ではないかと。単にわたしが間違ったことを書いてて、訂正してもらえたりとかもあるだろうし。
ブログでもなんでも、主と従とのやり取りになりがちで、従と従とが会話することがあまり無いのはもったいないと思ってしまいます。いや、大勢に読まれているサイトならば、そんなこともないか。
ネット界全体が、過渡期を経て、単なる情報源になっていくのはつまらないと思うのです。個人で書いている日記サイトには、何かしらカオスの要素をはらんでいてほしいと思うのです。
「OVERMAN キングゲイナー」、全26話を見終えました。
結局、エクソダスとはなんだったのか。最後の5話が怒涛の展開過ぎて理解が追いつかず、オーバーデビルとはなんだったのか? アーリーミイヤとは誰だったのか? など、疑問は尽きない。が、一番の疑問はエクソダスだ。
主人公たちは、ウルグスクという管理された土地での生活を捨て、まだ見ぬ新天地であるヤーパンへ大掛かりな旅に出る。それが、キングゲイナーの世界で語られる「エクソダス」の意味だ。
エクソダスは、それまでの生活から逃げることではなく、新たな行動を起こして変わっていくことだ、という台詞があった。新天地を求めて旅に出ることのみを見れば、確かにエクソダスは単なる逃亡ではない。
しかしわたしが疑問に思うのは、その勢いを、ウルグスクで新しい生活を興す方向に使うことはできなかったのか、という点である。
最終話で、ヤーパンに無事に辿り着いてエンディングを迎えるだろう、というわたしの期待はあっさり裏切られた。
サラが「ヤーパンに着いたら、キングゲイナーにはその力を利用して畑を耕してもらう」などと言っているあたり、そこが桃源郷のような、単なる憧れの地として目指されているわけではない。それは分かる。だがしかし、そこで人々がどのような生活を営んでいくのかが、わたしには想像がつかない。
エクソダスの中途には、(作中で積極的に描かれてはいないが)怪我人も死者も、そしてゲイナーのように望まずして取り込まれてしまった人々も、たくさんいるのだろう。肯定論者も否定論者も巻き込んで、それでもなお現状を変えようとする時代の力。そこにあるのは、大きな目標のためには多少の犠牲は付き物なのだという、ありがちな大義名分。
だが、その旅を非日常とは、わたしには感じられない。今までとは違う形での生活が、旅という形に転化しているだけだとしか思えない。生きることには、個人レベルの小さな諦めに始まって、いつでもどんな場面でも選別が必要になる。それを踏まえて、ウルグスクでの生活とエクソダスでの生活とで違う点を考えると、生活の現場が転々としていくことだけではないだろうか。
また、例えばゲイナーが、戦闘スキルを上げるためにゲームを利用していたシーンがあった。しかしその行動は特に咎められるものではなかった。エクソダスを始める以前からの習慣であっても(そして、それが「ゲーム」という、一般には否定的に捉えられがちな趣味であっても)、それが前向きな目的の元にあれば、認められないことはない。
ヤーパンでの生活は、エクソダスでのそうした生活の延長線上にあるのか? 延長線上にしかないのか? ならばなおのこと、ウルグスクでそうして生きていこうという発想は、得られなかったのだろうか。
つまりわたしは「逃亡」という言葉に引っかかっているだけなのだろうとは思う。今の自分を変えるために、何かしら新しいきっかけを必要とするのであれば、逃亡だって充分な理由になり得るだろうと信じている。逃げることを字面でそう否定しなくてもいいのに、と思うのである。
あらすじを把握した現在、もう一度見直せば、「エクソダス」という行動が持つ意味を、また違う面から理解することもできるだろうか。こんな小難しいことを考えずに、素直に絵の綺麗さや登場人物の豊かさや破天荒な旅を楽しみたくもあるが、ともかく、またいつか観たい作品である。
ふと気付いたら前回の更新から5日も経っているではありませんか。
考えたことを、ただ考えるだけにして放り出さず、きちんとケリをつけて世の中にお披露目しよう。そういう目的で書いているブログだから、自分の納得がいかない文章しか書けない限り、更新されない。それはまぁ構わん。あーでも例外として、ただ言葉を羅列したい気分のときももちろんありますが、そして今回なんかもそんな文章ですが、と、一応言い訳をしておく。
問題は、書きたいことがあるのに書けないってことだ。よく言われるようなブログ更新にまつわる強迫観念とは、少し違う。誰かに自分を伝えたいのに、うまくそうできない。本気で伝えたいと思っていないから、そうできないのだろうか? いや、本気で伝えたい、誰にも理解されなければ淋しくてわたしは死んでしまうと思う、誇張ではなく。なのになぜできないのだろう?
文章能力が低いのか、何かをきちんと考察できない自分の怠惰さが悪いのか、集中して文章をまとめられない脳味噌が憎いのか。
昨日はPCが不調で、なぜかシャットダウンできない病に陥った。電源を切っても切っても切れないんですよ、恐かったですよ。小さいときに繰り返し視た恐い夢を思い出した。TVからお化けが出てきて襲われる。必死でTVの電源スイッチを切る。切れない。何度スイッチを押しても押しても、電源は切れないのだ。お化けが出てくる。こええええ。閑話休題。
シャットダウンができないということは起動もできないかもしれないのであり、そうなるとブログはしばらく更新できないかもしれないのであり、そうするとわたしは世の中からさらに隔絶されてしまうかもしれないのだ。情報を得られないことも恐いが、情報を伝えられないことも恐くて、それがPCの故障によって具現化するかもしれない、というのは新たな発見だった。
本当はこんなふうに弱いことや些細なことも、臆せず世の中にお披露目していきたい。何を世界に伝えたくて、別に伝えようと思わないのは何か、という取捨選択は、わたしがカッコつけているからなされる行為なのかもしれないと不安になる。そんなカッコつけに意味はあるのか? 毎日劇的な何かが起こると思っているのか?
本当はわたしも、もう少し気軽な日記を書いてみたい。自分の思考を誰かに知ってもらうこと同様に、今日はこんなもん食べてこんなとこ行ってこんなことして楽しかったよ、という身辺雑記を書いてみたい。生存証明と言うならば、そういう毎日のことを丁寧に継続して書いていく、というのは重要なことだと思う。
しかし哀しいかな、何も特記すべき事項が無い。金がないので百均の安売りパスタにレトルトカレーで、ハロワ行く勇気がないのでネットで就職情報検索して、でもいつの間にか無関係のサイトを渡り歩いて遊んでいて、気付いたら朝になったので寝ました、今日もあまり楽しいことは無い一日だった。数行前に戻る。
ここ数か月ほとんどずっとこの繰り返しなのですが、それを毎日読んでもらうことに意味はあるのか? いやー。無いよー。無いだろー。否、人が読んで面白いかどうかが第一なのではなく、「こんなことを書いてる自分がつまらない」という気持ちが真っ先に来ているから、書くのを躊躇するのだ。血沸き肉躍るような出来事だけ書いて賞賛されたい、こんな文章じゃそれには程遠い、というカッコつけ方。
書きながらわたしは読み手になっている、こんなもん好んで読もうという人はあまりいなかろう、だけどそれだけじゃない。内容ではなく、その文章を書くときの自分の気持ち。無職であることや無知であることや、何も無い毎日や、ならばプラスに転じようという動力の無い自分を、恥じる気持ち。晒すのが恥ずかしいのでなくて、自分で恥ずかしいと思うような生活をしていること自体が恥ずかしいのだ。
では、なぜそれを「つまらない」「恥ずかしい」と感じるのだろう。何かを丁寧に書こうとするなら、内容に程度の差なんて存在しないのに。「mixiに溢れるようなどうでもよさ」という言葉で他人の日常を切り捨てて、毎日を丁寧に生きる人を侮蔑して、そんなことでカッコつけたつもりになってる自分が恐ろしくイヤだなあと思う。
図らずも、先日書いた文章の続きになってしまった。mixiで日記を書いている方をバカにしたかのような表現が、我ながらとてもイヤ。オチが無い。考えがまとまらない。