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先週は、有川浩大人買い週間でした。結局、「図書館シリーズ」・「塩の街」だけでは我慢できず、なけなしのお金をはたいて既刊を全部購入してしまいました。
ところで、有川作品には作品ごとの関連や外伝的要素などが多々あるので、基本的には出版順に読むほうが楽しいと思います。と言いつつわたしは、たまたま先に入手した「レインツリーの国」(新潮社)から読み始めました。出版順で言えば本当は「空の中」「海の底」のほうが先です。しかし近所の本屋には有川作品が置いてなさすぎだった。
この作品は、図書館シリーズ2冊目の「図書館内乱」に関連したものとなっています。2chなどでは、レインツリー→内乱、の順で勧められていることもあるようですね。
「図書館内乱」では、「レインツリーの国」という本を巡って重要なエピソードが繰り広げられるのですが、登場人物が話題にしているその本はいったいどういうものなんだろう?と想像しながら読み進める楽しみがありました。ので、わたしは2chとは逆に、図書館シリーズを先に読むことをお勧めします。
愚にもつかない感想だが、「レインツリーの国」は恋愛小説だ、と思った。登場人物の耳が不自由であるということは全く気にならなくて、読む行読む単語、いろいろすべてが身に染みる。そこでそんなふうに言ってしまってはいけないのに!とか、よっしゃそこでそうすればハッピーエンドが待っている!とか。しかしまあ、そう感じるのは、わたしが恋愛小説というものに慣れていないからかもしれない。
文章で説明される第三者には、恋人同士の気持ちが分かってしまう。だから安心して文章を楽しめる、読むことにだけ没頭できる。本当は好き合っているのにうまくいかないもどかしさを楽しんだり、自分が過去にやっちまった失敗を思い出して重ねて恥ずかしくなったり。リアルではそうはいきませんね。恋愛ごとに限らず、相手の気持ちは推測でしかない。例え「好き」と言ってもらえても、本当だろうかと疑うことだってあるだろう。
耳が不自由であることは特別だ。目や耳や何かが不自由ならば、他人の気持ちを理解する手がかりが一つ少なくなる。わたしがこの作品を読むにあたって、そういう特別な境遇をあまり気にせず、ただ「恋愛は相手の心が分からなくなりがちだからしんどいなあ、しんどいけれど楽しいなあ」とだけ感じたのは、どうしてだろう? 耳が不自由な人が耳が不自由であることを慮らずに、単純に恋愛小説として楽しめたと思ってしまうだけのわたしに、差別意識の芽が無いと言えるのかどうか。